戦後保守政治の主流を歩み、政策通で知られた宮沢喜一元首相(1919~2007)は、一方で権力政治は苦手な政治家だと言われた。ようやく就いた首相の座も2年足らずのうちに自民党の分裂騒ぎで失い、自民党長期政権の崩壊を招いた。日々の政治行動を詳細に記述した「宮沢喜一日録」や記者の証言を手がかりに、政治家宮沢の実像に迫る。権力の掌握と退陣に際して、どう振る舞うべきか。宮沢の直面した課題は現代の日本政治にもつながる。
「政界一寸先は闇」とは、しばしば語られる言葉だが、1982年10月12日の鈴木善幸首相の突然の辞意表明は、戦後史に残る「政変」だった。自民党総裁再選がほぼ確実視されていた鈴木が、総裁選の直前に不出馬を発表し、永田町に激震が走ったのだ。鈴木派の幹部であり、政権の要である官房長官を務めていた宮沢は、その危機管理を仕切る役割を担った。
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日録で確認すると、鈴木は10月6日に宮沢に連絡し、11日に私邸に来るように指示している。日録の6日のページには、宮沢の鉛筆書きで「首相はおそらく辞意表明をするものとみられる」とある。鈴木はもともと党内融和を重んじる調整タイプの政治家だった。長年の派閥抗争に疲れ果てた自民党が鈴木を総裁に選んで2年。そろそろ積年の派閥間の怨念が噴出し始めていた。「和」を信条とする鈴木は無理をしてまで権力の座にいすわるつもりはなかった。宮沢はそうした鈴木の心境を見抜いていたのだろう。
11日当日、宮沢は昼過ぎに東京・世田谷の鈴木の私邸に入り、2時間近く過ごしている。鈴木派の他の幹部も同席した。日録の書き込みにはこうある。「首相よりも辞意表明ありたるも一同ピンとこなかった様子」
この日の夜遅く、東京・原宿の宮沢邸を訪ねた新聞記者がいた。朝日新聞の野村彰男(当時39)である。留学経験もあり、ワシントン特派員だった野村は、宮沢が私邸に招き入れる数少ない記者の一人だった。
野村はこの日、ある鈴木派幹…